心の鉦を打ち鳴らし

心の赴くままに過ごす ささやかな悦楽の日々

心の鉦を打ち鳴らし
心の赴くままに過ごす ささやかな悦楽の日々


見られる側としての混浴

 30代半ばの一時期、仕事で毎週のように岐阜に行っていた。
 今でこそ道の駅は全国に数多くあるが、その当時は道の駅の設置構想ができたばかりだった。そこでまず試験的に栃木・岐阜・山口の3県でやってみようということになった。勤めていたのがごみ問題のコンサルタント会社だったので、道の駅をおもにごみ問題の解決の場としてとらえ、ごみ箱を設置してごみの投げ捨て防止や回収を図ろうというものだ。自治体との打ち合わせや実地調査のために、岐阜県高山市ほか7つの町村に通った。そのひとつが下呂げろ町(現下呂市)だ。

 下呂が温泉地として有名だということはその時に知った。だが、仕事で訪れていたのは温泉街ではなかったし、その温泉街を見物するような時間の余裕も機会もなかった。
 ある夏の日、会社の先輩2人とともに東京を立ち、夕方遅い時間に下呂に到着した。せっかくだから温泉に行こうということになり、ビジネスホテルに荷物を置くと、浴衣にタオル1本の出で立ちで出かけた。すぐ近くの河原に露天風呂があるという。

 あたりはもう暗くなっていて、周囲にどんな景色が広がっているのかわからなかったが、大小の石が転がる河原にそれはあった。石を乱雑に積んで囲いを作った中に、湧き出る温泉を溜めただけの素朴なものだった。管理人がいる整備された施設を想像していたので少し拍子抜けがした。むろん無料で、脱衣所がなければ壁も仕切りもなかった。ということは混浴だった。すでに大勢の先客が温泉に浸かっていた。

 身を隠す場所がないので、と言うよりも身を隠す意味がないので、やや離れた適当なところで浴衣を脱いだ。そのあとどうしようかと迷い、温泉に入っている人々の方を窺うと、さすがに全裸はいないようだった。男は腰に、女は胸から下に、手拭いやらバスタオルを巻いていた。それにならって、ビジネスホテルの貧弱なタオルを腰に巻いた。
 そんな露天風呂に照明があるとは思えないから、おそらく近くの街灯か温泉街の灯りだったか。四囲はすでに夜の闇に包まれていたが、光を受けて人の姿かたちは見極めることができた。真夏の宵だったので湯気もおぼろだった。どうせそうだろうとは思っていたが、ほとんどが中高年の人たちだった。
 そんな彼らを、すぐそばにしゃがんで見ている2人連れの若い女性がいた。2人とも観光客のようで、浴衣ではなく普段着を着ていた。2人は何か思案するように言葉を交わしていた。
 湯は透明でそれほど深くもなさそうだったが、暗いので底が見えなかった。腰のタオルを片手で押さえ、足で底をまさぐりながら体を下ろそうとした。
 その時、タオルが石に引っかかってほどけ、下半身が露わになった。
 女性の会話がやみ、一瞬息を呑むような気配があった。
 ここでうろたえて隠すのは男らしくないと思い、腰の下の石を避けるため下半身が前に突き出るのも厭わず、そのままゆっくり体をずらして湯に沈めた。熱くもなくぬるくもなかったのか、不意をつかれてそれどころではなかったのか、いずれとも判然としないが、その時の湯加減や感触は記憶にない。一時的にせよ狼狽していたのは間違いない。
 首まで浸かったところで内心の落ち着きを取り戻し、周囲のようすを確かめることができた。今し方そこにいた2人の女性の姿は消えていた。

 目の前に1人の年配の女の人がいた。40代か50代か、もしかしたら60代かもしれないが、年齢がおよそわからない。バスタオルを巻いた胸元まで湯に浸かり、中空を見つめていた。無造作に束ねた髪のほつれ毛の幾筋かが、肩に垂れて貼り付いていた。その肌がはっとするほど白い。眠っていたわがチビ助がピクリと寝返りを打とうとした。起こしてはいけないと思い、そ知らぬふりをしてそっとやり過ごし、ようすを窺った。油断すると不覚を取りそうだった。
 女の人はずっとそこで湯に浸かっていたと思われる。何事もなかったように取り澄ましていたが、その目は「見たわよ」と告げていた。

 そこに、先ほどの2人の女性が戻ってきた。体にバスタオルを巻いている。2人は荷物をあたふたと足元に打ち捨てると、何かに急かされるように、湯加減をみるのももどかしいような勢いで湯に入ってきた。2人はそれまでずっと無言だったが、荒い鼻息が聞こえてきそうだった。自分らでタオルを剥いでしまうのではないかとさえ思われた。そうしなかったのは温泉のせいだろう。2人は湯に浸かると、それぞれに長い溜息をついた。

 この露天風呂は噴泉池ふんせんちと呼ばれ、下呂温泉の名物らしい。飛騨川の河川敷にあり、しかも温泉街の真っ只中だったようだ。
 風呂からはホテルや旅館、橋などが望めるものの、周りには何もなく、見られることに関しても開放的だ。
 現在の写真ではきれいに整備されているように見える。30年前は夜だったのでわからなかったが、当時すでにそうだったのか、のちに整備されて現在のようになったのか。
 水着着用が義務付けられるようになったそうだが、さすが温泉天国の日本人だ。スッポンポンで入っている人もいるようだ。

面接試験の傾向と対策

 前回は選択問題の「傾向と対策」について書いた。
 今回は面接試験の「傾向と対策」について書こうと思うが、前回同様、実際の試験の傾向と対策にはならないだろう。重要な試験を控えている方は悪しからず了承されたい。

 面接試験というものが苦手だった。たいそうな志望動機などありもしなかったし、自己PRとはいえ自分のことをペラペラしゃべるのは恥ずべきことと思っていた。模範解答を真似ようとしても実感が伴わないから浮ついたものになる。面接のマニュアルにはありのままの自分を見てもらおうなどと書かれていたが、ありのままの姿を曝せば落ちるとわかっていたので、そんな本音が見透かされはしないかとびくびくしていた。そして言わでものことを口走るはめになる。前回触れた出版社の面接試験がそうだった。
 
 出版社から筆記試験が通ったという連絡があったが、別の日に受けた新聞社からも、筆記試験の通過を知らせる連絡が前後してあった。そして両社の面接試験は同じ日だった。考えた結果、出版社を受けることにした。新聞社は忙しそうだったからだ。
 面接官は4人か5人だったと思う。そのうちの1人は明るい色のツイードのジャケットを着ていた。椅子にやや斜めに座り、しゃべり方もラフでくだけた感じだった。ほかの面接官はスーツ姿で、きちんと正面を向き、話し方も慇懃だった。ジャケットの人だけが総務とは別の部署から来たのだろうか。
 それに対して、面接を受ける側は2人だった。一緒になった相棒は、メガネをかけた顔色の悪い関西の学生で、体に合わないよれよれのスーツを着ていた。面接の前に少し言葉を交わしたが、話し方も陰気で弱々しいものだった。こいつなら勝てるな、と思ったのがそもそもの間違いだったかもしれない。部屋に通され、面接官に自己紹介の挨拶をした時点で意表を突かれた。
 相棒の受け答えは完璧だった。何をもって完璧とするかわからないが、一つ一つが完璧に思われた。
 希望職種は2人とも校正だった。なぜ校正を希望するかとの質問に、相棒はこう答えた。
「出版や編集の仕事は独創性が要求されるが、自分の独創性などたかが知れている。だから、決められルールに則って、ミスを犯すことなく、ルールの枠内できっちり結果を出すような仕事が向いている。校正の仕事はそんな自分に合っている」
 とりわけ「たかが知れている」という文句は驚きだった。そんなネガティブで客観性を極めたような自己評価は、それまで聞いたことも読んだこともなかった。それはむしろ独創的だった。面接前とは打って変わって、その声はよく通り、話し方も自信に満ちていた。
 それに引き換え、自分の受け答えはありきたりで陳腐なものだった。空々しい言葉を発している自分が自分でないように思われた。支持政党を訊かれた時、知りもしないのに「自民党です」と答えた。なんと意味のないことを言っているんだろうと思ったが、このあたりまでに正常な判断力が麻痺していたようだ。面接官が苦笑したように思う。そして最後に、ほかにどこかマスコミを受験したかと訊かれた。新聞社の名を答えたのに続けて、何を血迷ったか「本当は受けたかったんですけど」と付け足した。面接官の凍りついたような沈黙の意味に気がついたのは、「よろしくお願いします」と朗らかに一礼し、部屋を出てしばらくしてからだった。
 面接の結果は言うまでもないだろう。
 翌年だったか、その時の試験の合格者数と出身大学が公にされた。合格者は2名で、うち1名の出身大学は相棒の大学だった。

 面接が終わり、その出版社のトイレで用を足していると、隣におそらく総務課の人が来て立った。面接官ではない。「〇〇さんですね」と声をかけられ、ほかにどこを受けたかと、面接と同じことを訊かれた。男の連れションはしばしば気ごころが通じ合う行為だが、その時面接での顛末を打ち明けていたらどうなっていたかと思う。
 とんでもないことをわめき散らしてしまいました、前代未聞でしょう、皆さん唖然としていましたよ、怒っているでしょうね、などと素直に告白していたら、おもしろい奴だと思われて、もしかしたら違う結果になっていたかも…。
しかしその時は、そんな大胆なことを口にする気力はなかった。 
 もう40年近く昔のことだが、今思い出しても恥ずかしくなる。

選択問題の傾向と対策

 大阪大学が昨年2月に実施した入学試験で、出題と採点にミスがあったことが明らかになったという。
 その結果30人が追加合格となったそうだが、試験からすでに10か月以上が経っている。気持ちを切り替えて別の道に進んだ人もいるはずで、今さら合格と言われても戸惑うだけだろう。気の毒としか言いようがない。
 誤りを外部から指摘されたにもかかわらず黙殺し続けたのは、大学側がそれを少数派の意見とみなして事の重大さを直視しなかったからか、黙って取り合わなければいずれ立ち消えになり忘れ去られると踏んだからか。いずれにしても世間をナメている。
 その試験問題だが、科目は物理で、読んでみたがさっぱりわからない。これは問題文の意味がわからないということだが、意味がわかったとしてもむろん解けるわけがなく、だから難問であることには間違いないのだろう。
 理系のしかも大阪大学ともなると、これほどの難問を18かそこらの受験生に問うのか。

 このニュースでもうひとつ気になったことがある。正解が3つあるということだ。
 国語などの文系科目では正解が複数あってもおかしくないし、むしろそれが自然でもあるはずだが、理系科目でもそういうことが許されるのだろうか。多様性が尊重されるべき文系に対し、理系では厳密な単一の正確性が要求されると思っていたので、正解が3つもあるというのはちょっとした驚きだった。

 作家の遠藤周作が、生前あるラジオ番組に招かれて出演していた。番組名は忘れてしまったが、その中で遠藤は、みずからの作品が試験問題に採用されていることを示される。そしてその場で問題を解くよう求められた。複数の選択肢から一つを選んで答える択一問題だ。
 快く応じた遠藤だったが、呻いたり唸ったりして悪戦苦闘しているようすが伝わってきた。さかんに首をひねっている姿も想像できる。「全部当てはまるかもしれない」とか「どれも違うような気がする」と頼りなげな言葉も漏れた。
 そしてひと通り回答すると正解が明かされた。結果は全問不正解だった。とうとう遠藤は「こういうことを言いたかったのではない! こんな問題を勝手に作られたら困る! 取り上げられるのも迷惑だ!」と怒り出した。

 遠藤の小説は学生時代に何冊かを立て続けに読んだ。そういうふうに読ませるものが遠藤の小説にはあった。特に『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』のイエスの三部作には、キリスト教と縁のない者をも強く引き込む得体の知れない力があった。それは「狐狸庵先生」とはまた別の、キリスト教信仰をめぐる遠藤の真摯な一面を示すものだろう。
 そんなクリスチャンとしての横顔と端正な文章から、折目正しく穏やかな、優しい人柄を想像していた。それは日本人がクリスチャンという人たちに対して抱くイメージでもあるだろう。だから、そんなクリスチャンのステレオタイプをぶち壊すような、なりふりかまわず怒りを露わにする遠藤は意外で新鮮だった。そしてそんな遠藤がいっぺんに好きになった。

 大学在学中の就職活動で、ある大手の出版社の入社試験を受けた。
 マスコミの筆記試験は難しいと言われていたが、合格ラインはそう高くないと聞いていた。
 実際の試験は、難しいと言うより手に負えないものだった。選択問題では選択肢が10も20もあった。解くことができるか知っているかすれば難なく回答できるのだが、そうでない場合は途方に暮れた。そしてそういう問題が大半だった。選択肢のどれを選ぶか手がかりがまったくないので、冗談ではなく鉛筆を倒そうと思った。せめて解答欄は全部埋めようと思い、問題文は読まずに片っ端からマスを埋めていった。
 ここまで歯が立たないと悔しさは皆無だった。心はすっきりとしてむしろ晴れやかだった。実にサバサバとしたものだった。だからその日の夜に出版社から電話がかかってきた時は、忘れ物でもしたか、何か悪いことをしでかした苦情かと思った。
 電話は筆記試験が通ったことを知らせるものだった。最初は信じられなかった。何かの間違いではないかと思った。そしてその思いは今も変わらない。その出版社には最終的に落ちたのだから。

死ぬかと思った北穂~奥穂(2)

 北穂から穂高岳山荘へのルートは、岩と恐怖の記憶しかない。眺めを楽しむ余裕は皆無だった。目の前にも、指先にも、足元にも、あるのは岩だけだった。高所恐怖症なので下は見ないようにしたが、一度勇を鼓して視線をめぐらせると、足元の岩場から下がなく、谷底に向かって突兀とした岩の群れが続いていた。
 岩にへばりつくようにして、手がかりや足がかりを探しながら、少しずつ体を移動させた。ルートを示す矢印やマルが岩にしるされていたが、こんなところをどうやって登るのだと、何度絶望したことだろう。
 岩の面が手前に覆いかぶさるように張り出している、いわゆるオーバーハングが多いことは知っていたが、そのオーバーハングの一つで岩を掴み損ねた。上体がふわりと浮き、そのまま谷側に傾きかけた。宙を泳いだ指先が偶然にも岩の角に引っかかった。それがなかったら転落していただろう。
 岩場の陰に思いがけず数輪の花を見つけた。しかしそれは恐怖を癒す自生する花ではなく、死者に手向けられた供養の花だった。そこから転落するか滑落するかして命を落とした友人の霊を慰めるために、登山仲間が登ってきて捧げた花なのだろう。痛ましさは感じたが、岩にへばりついたままで冥福を祈ることはできなかった。恐怖はむしろ募った。
 天候は晴れだったが、伝う岩場は日向になったり日陰になったりした。日陰に入ると恐怖が増し、日向に出るとそれがかなり和らいだ。恐怖がまったく消えることはなかったが、太陽の光を浴びるとほっとした。
 ほかの登山者とすれ違ったり、追い越し追い越されることもなかった。岩場は延々と続いた。いつになったら終わるのかと何度も思った。
 もうたくさんだと、怨嗟の思いで天を仰ぐように見上げると、岩の上にヘルメットをかぶった男の顔が見えた。遠くを眺めて笑みを浮かべている。ヘルメットが必要なルートだったのかと無知を嘆く一方で、笑うことができるところなのだとも思うことができた。男の姿と笑みに救われたような気がしたが、それで恐怖が薄らぐことはなかった。その証拠に、すがるような思いで男に声をかけようとした。助けを求めたかったのではないが、岩場に慣れた人の声を聞いて恐怖から少しでも逃れたかったのだ。しかし男の姿はもうそこになかった。

 死ぬかと思った…。
 それが穂高岳山荘に無事たどり着いた時の感想だった。これは同じルートを歩いたほかの登山者の思いでもあったようだ。大の大人が駄々をこねるように、山荘の畳の上で体をゴロゴロさせながら、「あ~、死ぬかと思った~」と人目もかまわず泣き言を言うのを見た。
 改めて地図を広げてみると、「危険」の意味が初めてわかったような気がした。体力だけではどうにもならないルートや山があることを思い知らされた。そして、最初はほとんど無視していた涸沢岳が、このルートの難関の象徴であることも知った。
 その日は穂高岳山荘に泊り、翌日は奥穂から前穂を経て一気に上高地まで下った。距離は長かったが、前日のルートのような危険箇所もなく、展望を楽しみながら歩くことができた。

山と渓谷』の特集によると、一般登山ルートでは日本最難関と言われた大キレットは、近年ルートの整備が進んで以前ほど危険ではなくなったという。それと比較して、現在では「北穂高岳奥穂高岳」の方がむしろ危険で難しいそうだ。ネットでもこちらの方が怖かったという声が多かった。
 大キレットは多くの登山者が越えてみたいと思う目標だろう。確かにいつかは挑戦してみたいと思っていた。それに今は「北穂~奥穂」よりやさしいという。
 しかしそれでも、死ぬような思いをする岩だらけの山にはもう登りたくないというのが本音だ。

 初めて北アルプスに登ったこの年の夏、山と渓谷社がちょうど涸沢に取材に来ていた。イベントがあり、大学生によるアルプホルンの野外コンサートなどが開かれた。涸沢ヒュッテの前で大勢の登山者とともにカメラに収まった。
 翌年の『夏山JOY』の特集見開きページに、1枚の集合写真が大きく掲載された。眩しい笑顔ばかりが並ぶその中に、一人のニヤけた男の顔があった。

死ぬかと思った北穂~奥穂(1)

 新年の書店の店頭には、新たな一年を展望する雑誌が並ぶ。
山と渓谷』は毎号手に取りたくなる雑誌の一つだ。1月号では「今年歩きたいベストルート100」という特集を組んでいる。その中の岩稜ルートに、北アルプスの「北穂高岳奥穂高岳」が取り上げられていた。このルートは初めて北アルプスに登った時に歩いたコースだ。

 もう20年以上前になるが、夏の盆休みを利用して、北アルプスの山に登ってみようと思った。
 山登りを始めてまもない頃で、北アルプスはまだ登ったことがなかったが、どうせ登るなら穂高に登ろうと思った。「穂高」が日本のアルピニズムの象徴として人口に膾炙しているのは、それだけのすばらしさがあるからだろうと思ったからだ。また、穂高という言葉の字面にも響きにも、いかにも登山らしいロマンや憧れのようなものを感じていたからだ。
 登山地図を買い求めて調べてみると、穂高という山は、主峰の奥穂高岳を初めとするいくつかの峰の連峰であることがわかった。上高地から涸沢に至り、ザイテングラートを登って奥穂高岳まで歩くルートを考えたが、日程からするとそのコースでは少し余裕がありそうだった。そこで、熟練者向きとなっていた西穂高岳へのルートを除き、「穂高岳」とつく3つの峰すべての頂を極めようと思った。涸沢から北穂高岳に登り、穂高岳山荘を経て奥穂高岳前穂高岳まで歩き、岳沢から上高地に下るルートだ。地図の北穂高岳穂高岳山荘との間のルート上に、マルに危険の赤い印がいくつかついていたが、体力には自信があったのでどうにかなるだろうと思った。

 初日は涸沢ヒュッテに泊り、2日目は北穂高岳を目指して歩き始めた。初めての北アルプスという気負いと緊張があったので、強いてペースを抑えながら登った。上りはやはりきつかったが、思ったほど難しいところはなかった。
 標高3106メートルの北穂の頂からの眺望は、それまでの山登りで経験したことのないものだった。
 これほどの高みから、透明な大気と光に包まれ、手に取るような近くに、あるいははるか彼方に、静寂のうちに連なる山々を眺めたことはなかった。あの槍ヶ岳も指呼の間だった。絶景という言葉では括れない、またそれ以外のどんな言葉でも表現できそうにない、ここだけの時間と空間だった。そしてこんな狭いところに、と驚かずにはいられなかった北穂高小屋のささやかなテラスは、断崖からほとんどせり出して天空に浮かんでいた。
 しかし、眺めを楽しむことができたのはここまでだった。

サンタクロースの思ひ出

 サンタクロースがいることをかなり遅くまで信じていた。
 多くの子供がそうしたように、クリスマスイブに枕元に靴下を置いて寝ると、翌朝サンタからのプレゼントが届いていて大喜びしたものだ。
 子供の頃の家には煙突もあった。しかしそれは母屋とは別棟の、風呂場のごく細い煙突だった。当時は薪で風呂を焚いていて、その風呂釜の煙を逃すための煙突なのだが、直径がおそらく10センチほどしかなかった。
 そんな細い煙突をサンタはどうやって通ってくるのか不思議で、中に入れたとしても煤で真っ黒に汚れるのではないかと心配だった。サンタは子供が寝静まってからやって来るというが、両親はサンタが来るまで起きて待っているのだろう。両親の言葉の端々からすると、両親はサンタと知り合いのようだった。そしてサンタが来たら、どうも、とか挨拶をして、子供の枕元まで案内する。サンタは大きな袋からプレゼントを取り出して靴下に入れる。
 翌朝目覚めて勢いよく起き上がると、枕元の靴下が膨らんでいた。「来た!」と歓喜の声をあげ中を探ると、まちがいなくサンタからのプレゼントが詰まっていた。大きなプレゼントの場合はそのまま置かれていたが、靴下はなぜかなくなっていた。
 こんなクリスマスを、小学校の高学年くらいまで過ごしていただろうか。それまでサンタについて両親にいろいろ質問したはずだが、世のすべての親がそうするように、サンタはいないという話を聞かされることはなかった。普通の子供ならもっと早い時期に友達から聞くなどして知るのだろうが、そんな経験が遅くまでなかったのか、鈍感な子供だったのかもしれない。いずれにしても、大人になってから母親に「信じていたでしょ」とからかわれた。

『サンタクロースっているんでしょうか?』という絵本がある。これは、今から120年前の1897年に、アメリカの『ニューヨーク・サン』紙に掲載された社説を、1977年に翻訳し絵本として出版されたものだ。社説を書いたのはフランシス・P・チャーチという記者で、中村妙子という翻訳家が訳している。
 ある日『サン』紙あてに、バージニア・オハンロンという8歳の少女から次のような手紙が届いた。

きしゃさま
あたしは、8つです。
あたしの友だちに、「サンタクロースなんていないんだ。」っていっている子がいます。
パパにきいてみたら、「サンしんぶんに、といあわせてごらん。しんぶんしゃで、サンタクロースがいるというなら、そりゃもう、たしかにいるんだろうよ。」と、いいました。
ですから、おねがいです。
おしえてください。
サンタクロースって、ほんとうにいるんでしょうか?

 これに対する返事をチャーチは社説に書いた。チャーチはその中で、サンタクロースなんていないという友だちはまちがっていることを説き、こう続ける。全文でもそう長くないのだが抜粋する。

そうです、バージニア
サンタクロースがいるというのは、けっしてうそではありません。
この世の中に、愛や、人へのおもいやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです。
  
サンタクロースをみた人はいません。
けれども、それは、サンタクロースがいないというしょうめいにはならないのです。
この世界でいちばんたしかなこと、それは、子どもの目にも、おとなの目にも、みえないものなのですから。

目にみえない世界をおおいかくしているまくは、どんな力のつよい人にも、いいえ、世界じゅうの力もちがよってたかっても、ひきさくことはできません。
ただ、信頼と、想像力と、詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくのむこうの、たとえようもなくうつくしく、かがやかしいものを、みせてくれるのです。

 8歳の子供が理解するにはやや難しいかもしれないが、掲載されたのは新聞の社説だ。バージニア人とは別に、大人に読まれることを想定していると言ってよいだろう。
 しかし、大人が最初からこれを大人向けのものとして読んだら、表現の直截さや青臭さに気恥しさを覚え、素直に読むことはできないだろう。あくまでも子供に語りかける体裁をとっているので、大人の分別からは自由になって読み進むことができる。
 訳者の中村もあとがきに書いているように、この本は「かつては確かに子どもであったおとなの方がた」も読むべきものだ。と言うよりも、大人こそが読むべき本だろう。
 目に見えるものしか信じられない大人になって初めて、目に見えないものの大切さに気づくのは皮肉なことだ。この本が今なお涙とともに読まれ続けているのは、そんな大人の心の片隅に、目に見えないものを信じたい子供の心が残っているからだろう。

 大人になったバージニアは教師になり、学校の副校長まで務めたそうだ。そして1971年に81歳で亡くなった時、『ニューヨーク・タイムズ』は「サンタの友だちバージニア」という見出しの一文で、バージニアの死を悼んだという。

喫茶去

「先生、ご無沙汰しています」
「久しぶりですね。花子君は元気でしたか?」
「お陰様で。先生は?」
「この時期は何かと忙しくてね。師走というのは私のことをさす言葉です」
「今年も残りわずかですね」
「元旦に寝坊したのが今朝のようです」
「『今年の漢字』が発表されましたね。『北』だそうです」
「ふむ。例年通り、機知や含蓄のかけらもなければ、新たに迎える年への希望も感じられません。まったく味気ない即物的な字です」
「あれは全国から公募するそうですよ。『北』が一番多かったというのは、やっぱり北朝鮮のことですよね。北朝鮮に振り回された1年でした。今年がそういう世相だったと思う人が一番多かったということでしょう」
「公募はかまいません。問題は公募の内容が、今年の世相を表す漢字を募るだけで、ほかに何も問わないことにあります。応募者は印象に残った字を書くだけです。主催者は誰ですか?」
日本漢字能力検定協会です。漢検を実施しているところです」
漢検がこんなこともやっているのですか。しかしやるなら、ただ公募して集計して発表するというのでは意味がない。その年の世相を顧みて、よいことが少なく悪いことが多かったとしても、そこから新しい年に繋がるような一字を募り、審査するのです。現状は単なるアンケートとその結果報告です」
「でもそうすると、応募する人がずっと少なくなると思います。今まで以上に考えなければなりませんし」
「それでよい。考えればよいのです。漢字の理解と認識を深めてもらうのが漢検の理念でしょう。漢検試験と同じです。ちなみに、私は漢検2級を持っています。エヘン」
「あら、お風邪ですか? わたしは1級ですけど」
「・・・」
「あ、和尚さんが来た!」
「喝!」
「和尚にとって今年はどんな1年だった? 漢字1字にすると」
「喝!」
「だからどんな1年だったのかね」
「『喝』の1字だよ。この娑婆の世は汚濁と塵埃にまみれて目を背けんばかりだ。まったく嘆かわしい。そんな俗世に仏の喝を入れてやりたい」
「相変わらずカタいね。嫁さん来ないよ」
「拙僧は仏道において結縁けちえんせし出家である。女性にょしょうは要らぬ。そこもとの今年の1字は?」
「『充』だな。充実の『充』だよ」
「何かしたのかね」
「茶の指南で忙しかった」
「和尚さん、わたし『遊』だと思います。遊んでばかりで何もしてくれなかったもん」
「ぶ、ぶ、無礼者!」
「『遊』という字は、たとえば遊行ゆぎょうと言うように、修行や説法のための行脚という意味もある」
「たまにはいいこと言うね」
「花子君の今年の1字は何ですか?」
「『恋』かな…。恥ずかしい!」
「ほう」
「相手はどこのどいつかね。まさかこのインチキ坊主ではないだろ?」
「喝!!!」
「待てよ。もしかしたら私かもしれない。うむ。面と向かっては言えないものだ。茶を教えてあげないのを拗ねているみたいだし。カワイイ!」
「先生は永生きされると思います。それに『待てよ』なんて死語です。ところで、来年の抱負は何でしょう。わたしは何か武道をやってみたいな」
「拙僧は1年後、京都の清水寺で『今年の漢字』を揮毫する。これは書に託した仏道である。私生活においては、美しい金髪女性をこの世の業苦から救う。これは仏の慈悲であり菩薩道である。しかしてその実践の場はひろし。合コンの日に葬式が入らぬように。メリークリスマス! 合掌」
「私は茶の師範になって、書道の師範になって、芥川賞を取って、本屋を始めて、カフェを開いて、俳優デビューして、豪華客船でめぐる世界一周の旅に行って、ジャンボ宝くじで1等と前後賞を当てて、楽して暮らしたい」
「お二人ともご自由に!」